OPEC

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組織・期間

石油輸出国機構とエネルギー安全保障

1960年9月、石油を輸出する国々が集まり、石油輸出国機構(OPEC)が設立されました。石油に関する政策の調整や、情報の収集、意見交換を行う場として、サウジアラビアとベネズエラが中心となり、イラク、イラン、クウェートも初期加盟国として参加しました。OPEC設立の背景には、1950年代末に巨大な石油会社が原油価格を一方的に引き下げたことに対する、産油国の反発がありました。それまでの石油資源の開発や販売は、主に欧米の巨大石油会社によって支配されていました。これらの会社は、石油の採掘から精製、輸送、販売までを一貫して行い、莫大な利益を上げていました。しかし、産油国自身は価格決定にほとんど関与できず、資源の所有者でありながら、利益の大部分を欧米の企業に奪われていたのです。原油価格の引き下げは、産油国の収入をさらに減少させるものであり、自国の資源に対する主権の確保と、価格決定への影響力を持つ必要性を強く認識させる出来事となりました。OPECの設立は、産油国が自国の資源に対する権利を主張し、国際的な石油市場において発言力を高めるための重要な一歩となりました。それまで欧米の巨大石油会社が独占していた価格決定権に、産油国が初めて対抗する手段を得たのです。この動きは、石油資源をめぐる国際的な力関係に大きな変化をもたらす始まりとなりました。産油国は、資源の所有者として、自国の利益を守るために結束し、国際社会における存在感を高めていくことになります。OPECの誕生は、石油の歴史における大きな転換点と言えるでしょう。
燃料

石油危機と日本のエネルギー政策

一九七三年十月、第四次中東戦争勃発をきっかけに、世界は未曽有の石油危機に直面しました。これが第一次石油危機です。アラブ石油輸出国機構(OAPEC)による石油戦略の使用は、産油国以外の世界各国に大きな衝撃を与え、日本もその例外ではありませんでした。これまで安定的に供給されていた石油が突如として手に入りにくくなり、価格は急騰しました。この影響は、あらゆる産業に波及し、物価は上昇の一途をたどりました。国民生活は圧迫され、企業活動も停滞し、日本経済は大きな打撃を受けました。第一次石油危機から五年後の七八年には、イラン革命を契機として、再び石油供給が不安定化しました。これが第二次石油危機です。中東情勢の緊迫化は、原油価格の乱高下を招き、世界経済は再び混乱に陥りました。日本経済もまた大きな影響を受け、エネルギー安全保障の重要性が改めて認識されることとなりました。二度にわたる石油危機は、資源小国の日本にとって大きな教訓となりました。エネルギー源を特定の国や地域に依存することの危険性を痛感し、石油への依存度を下げ、エネルギー源の多様化、省エネルギー化、そして国産エネルギー資源の開発が急務であるという認識が広まりました。この経験は、その後の日本のエネルギー政策に大きな影響を与え、現在も続くエネルギー問題への取り組みの原点となっています。